エイコウ電子株式会社

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エイコウ電子
エイコウ電子 50周年記念
エイコウ電子の50年の歴史と、これから
エイコウ電子はおかげさまで50周年を迎えることができました。エイコウ電子のこれまでのあゆみをまとめました。
ぜひご覧ください。
エイコウ電子50年 年表
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年表
年表
CONNECT TO THE FUTURE
〜TSUNAGUストーリー1〜
創業期
無線との出会い
九州・宮崎に生まれた私が、昭和の初め中学3年生だったときのこと。私は、「これからは電気だ」という思いがあった。ラジオ雑誌の通販でラジオキットを買っては、自分で組み立て、近所にラジオを売って小遣いを稼ぐような子供だった。
「園田のところのラジオは良く聞こえるなあ」
そういわれることも多かったが故障もした。そんな時は、戦後、宮崎に戻ってきていた元通信兵の電気屋のおじさんの家に教わりに行った。
「お前、自分で組み立てたラジオの配線を、一度分解して俺の目の前で組み立ててみな」
正直、自分で一度組み立てたラジオを分解するのは嫌だった。
「リード線の抵抗がちがうだろ。そこはもっと短く!」
「適当にやるな。そこと、そこの線も最短につなげ!」
言われて、組み立てなおしたラジオは良く聞こえ、故障もしなかった。技術力をアップした私は短波ラジオの受信機も作った。家に20mのアンテナを作って短波ラジオをつなげると、遠く海外の電波を受信した。私は「無線の時代が来る」そう確信した。
雇用を守り抜く
高校を卒業すると、私は郵便局に勤めた。その時もラジオの修理などを頼まれていた。公務員という安定した仕事に親は満足していたが、
「どうしても、好きな仕事をしてみたい」
私がそう父に言うと、父は借金をして東京の電気専門学校に行かせてくれた。電気への憧れだけで九州から上京し学校に通った。学校は無事卒業したが、最初の会社は倒産。次の会社でも苦労した。年末も押し迫った、冬の日。何度目かの給与の遅配があった。お金がない。なんとかしてもらおうと、大晦日の晩に社長の家に押し掛けた。社長には、私の息子と同い年の一卵性双生児の娘がいた。家に社長はいなかったが、その時、社長の家からピアノの音が聞こえて来た。耳を疑ったが、確かに聞こえる。胸がざわつき、髪の毛が逆立った。社員に給与を払えないと言っておきながら、自分の子供には、当時、社員の給与の何倍もするピアノを買い与えていたのだ。
「ばかばかしい! もう、こんな社長にはついていけない!」
わたしが起業を決めた瞬間だった。そして仲間と4人で、有限会社エイコウ電子を作った。借家であった自宅に、ビジネスフォンを引き、日本語タイプライターを買いそろえた。「社員を守り、絶対に給与や賞与を払い続けられる会社にする」それだけを胸に起業した。自宅に掲げた「有限会社エイコウ電子」のアクリル板の看板が誇らしかった。
CONNECT TO THE FUTURE
〜TSUNAGUストーリー2〜
第二創業期
共同経営者現る
創業して10年近くは、とにかく忙しかった。毎日のように仕事をする中で、従業員以外でも協力してくれる会社やメンバーが増えていった。
その中でも営業センスや、経営センスが飛びぬけていたのが、後に共同経営者になる臼杵煕だった。臼杵さんは物事をとらえる天才だった。無線の知識ではなく、「そもそもこういう機能だろう」「こういう使い方ができる」という企画提案ができる。そのため、無線機の新たな使い方をお客さんに指導しながら、無線機を使った市場を切り拓くことができた。そんな臼杵煕を専務として共同経営者に迎えることで、エイコウ電子は数人の小さな会社から、数十人の株式会社へとステップアップする。

また、臼杵専務は人材を見抜き育てる天才でもあった。事実、現在のエイコウ電子の部課長は、ほぼ全て臼杵専務が育てたメンバーになっている。役割を与え、役割に応じた仕事を割り振り育てていく。「俺はな、この子たちのことを、我が子同然に思っているんだ。だから、本気で向き合うし、本気で大切にする」
専務は、「この人物」と、決めた相手を裏切ることは決してしない。私とも長年、喧嘩もするが翌日には「おっ、おはよう」と声をかけてくれる。だからこそ、二人三脚を続けてこられた。そのことを今では幸せだと思う。
艱難辛苦かんなんしんくを乗り越えて
事業はいつも良い時ばかりではない。時に新しく始めたプロジェクトに失敗し、やってきたことが全て無駄になることもある。無駄になるだけならばよいのだが、失敗が波及し、経営資源そのものを失ってしまうこともある。
それでも、起業するときに決めた「社員を守り、絶対に給与や賞与を払い続けられる会社にする」それだけは曲げたくなかった。

業績が悪い年に、銀行に頭を下げ、社員に支払う賞与資金を、返せる当てもなく借りたこともある。「今回くらいは払わなくてもよいのではないか?」
そう言われても、自分が苦しかった時のことを考えると、全額は無理でも少しだけでも。と払い続けて来た。艱難辛苦かんなんしんくはいつもあったが、ともに乗り越えて来た専務や従業員がいることで、今では「あんなこともあった」と思い出にすることができる。「どんな会社にしたい」という明確な目的はなく始めた会社が、こうやって多くの人に支えられている現実を見ると、あの時、起業して本当によかったと思える。
CONNECT TO THE FUTURE
〜TSUNAGUストーリー3〜
今後の展開
無線からネットワークへ
無線分野一本でやってきたエイコウ電子に変化が起きたのは、臼杵専務の息子である現社長の臼杵貴司がネットワークの仕事を開拓したからに間違いない。
2000年に入り、時代はインターネット時代。あらゆるパソコンがつながる時代になった。さらに携帯電話が全国に普及し、スマフォが登場し、パソコンと携帯がひとつのネットワークを共有するようになってきた。時代の流れに乗って、パソコンのセッティングや、サーバーに接続するためのルーターなどの設置。光回線の開通にともなう実験や調査業務が増えてくる。そんな2000年初頭に、エイコウ電子はネットワーク部門を立ち上げ、当時の部長に臼杵貴司が就任した。
「IT NW部を作ります。全国の携帯電話の光伝送業務の仕事を手伝います」
エイコウ電子が無線を扱う会社から、全国の通信事業を扱う会社へと進化した瞬間だった。
同じころにモータリゼーションにも革命がおこり、全国にETCやVICSなどの道路にまつわる制御装置が導入される。
航空分野でも管制塔の制御装置がデジタル化されるなど、進化をつづけている。
ともに、エイコウ電子の「どんな仕事もやってみる」という開拓精神で仕事を受注し、今では会社の大きな柱になっている。無線だけにこだわっていたら、今、エイコウ電子は存在しなかったかもしれない。
世代交代
50年という歴史を振り返り、今後のために2022年4月に箱根で役員ミーティングを行った。私と専務。臼杵社長と園田常務と4人で。今後エイコウ電子をどうしていくかを話し合った。私と専務は、50年を以って会社の役員を退任し、新たな世代に経営を譲ることにした。
私が大切にしてきた「社員の生活を守ること」
専務が大切にしてきた「従業員を我が子だと思って、しっかり向き合うこと」
様々な思いを伝え、今後のエイコウ電子を託すことにした。

この50年がそうであったように、これからのエイコウ電子も変わり続けることだろう。その行く末は新たな経営陣にまかせることにする。その変化を見守りつつ、エイコウ電子に関わるすべての人々と、新しい世代で共に切り開いていってほしいと願っている。

50年間、共存共栄の精神で一緒に歩んでくれた仲間と、これからのエイコウ電子と一緒に歩んでいただく皆様とともに。

エイコウ電子 顧問 園田幸一
次の10年に向けて
代表取締役社長 臼杵貴司
次の10年に向けて
エイコウ電子株式会社の新代表になりました臼杵貴司です。エイコウ電子は、「共存共栄 Live and let live」を理念に掲げ、無線技術で世の中に貢献してまいりました。防災無線、消防無線など、人の命を守る無線技術を中心に、近年は交通インフラの整備にともない、航空無線、道路無線に力を入れています。「共存共栄」とは、大は業界や地域社会との共存共栄。小は社員同士のチームワークに至るまで。一人勝ちをしない、他を支援する価値観で貫かれています。創業から半世紀愛されてきたエイコウ電子は、新代表の私だけでなく、マネジメント層も若い世代へとこれからより一層変革を起こしていきます。

現在、自然災害の増加にともなう防災意識の向上が市町村レベルをはじめ、各地で起きています。技術面では、その防災システムの新規導入やリプレイスに即座に対応できるよう、QPSKなどの新方式の無線技術の習得、5Gの運用実験などに参画し、技術レベルの向上を図っています。人材確保の分野では、毎年の新卒採用を含めた人員増を2015年から10年計画ですすめています。

弊社はSDGsの目標である「永続的に住み続けられる町作り」、「産業と技術革新の基盤を作る」ことに何十年も前から貢献してきました。自然災害、特に洪水被害は世界各国の課題です。日本はアジアの中でも防災システムが整った国でもありますが、今後、「人の命と、街を守る」ことを最優先とする機運はアジア諸国においても高まるばかりです。ベトナム、ラオス、タイ、カンボジア、マレーシア等の成長国において、今後の産官学共同での技術派遣に対応できるよう計画し、現地法人の立ち上げを視野にいれた現地調査を実行中です。

日本の防災無線技術でアジアや世界の命を守るため、SDGsパートナーシップ制度参画企業として発展するエイコウ電子の未来にご期待ください。